衆議院議員下村博文の「教育論」を語る背景

衆議院議員下村博文の「教育論」を語る背景

父親を9歳の時に亡くし、母親が常に働いている背中を見て育った下村議員。文部科学大臣としてセンター試験の廃止など、教育改革を推し進めています。教育を政治の軸としているは、生まれ育った環境が大きな影響を与えています。交通遺児奨学金制度が始まった年に、奨学金を得て高崎高校へ進学して政治家を目指し地元の大学ではなく雄弁会に入るため早稲田大学を選びました。地盤なしから、どのように政治家へなったのでしょう?!

衆議院議員下村博文の「教育論」を語る背景

議員になりたい!

    奨学金を得て進学そして政治の道へ

    第二次安倍内閣、そして第三次安倍内閣で文部科学大臣という要職にあるのは、東京11区が選挙区の下村博文議員です。親の地盤を引き継いで、そのまま政治家になるという政治が家業になっている政治家が大変多い中で、下村議員は世襲議員ではありません。選挙区は東京11区ですが、出身は群馬県高崎市で高校卒業まで群馬県で育ちました。

    親が政治家でもない中で、大臣の座まで登るのはそうそう簡単な道のりではないはずです。親が築き上げた地盤を引き継ぐことができ、親の地盤を引き継ぐために大学卒業後は秘書として議員の親の仕事をそばで見聞きしながら、顔をつなぎまた顔を広め親から子供へ「議員」というバトンを引き継ぎます。まったく地盤もない中から、文部科学大臣という要職に就いた下村博文議員はどのような政治家なのでしょうか?!

    下村博文議員はどんな人?

    下村議員が初入閣を果たしたのは、2012年12月に発足した第二次安倍内閣のときです。この時に文部科学大臣兼教育再生大臣として初入閣しました。下村議員が選挙区としている板橋区へのかかわりは、群馬県高崎高校を卒業した後に大学へ進学する時にアパートを借りたのが、板橋区です。板橋区が東京での生活を開始するスタート地点となり、そしてやがて板橋区選挙区から東京都議会議員となり、政治のフィールドの場を衆議院へと向かいました。

    母の背中を見て育つ

    昭和29年(1954年)5月23日に群馬県の西部にあたる現在の高崎市で生まれていますが、生まれた当時は群馬県倉渕村でした。三人兄弟の長男として誕生していますが、当時9歳で小学校3年生の時に父親を交通事故で亡くしています。当時の倉渕村の人口は6000人程度で、住民同士が顔を知っているという小さな村で父親を交通事故で亡くすという出来事は、下村少年にとっても人生の大きな転機となりました。

    父親が亡くなった時に、下村少年は小学校3年生で下の弟は5歳に1歳だっため母親は実家へ戻り、パートの仕事をしながら畑仕事をして野菜を作り野菜は自給自足で賄うという生活を過ごします。母親の寝ている姿を見たことがないというほどなので、母親は子ども達を養育するために働く毎日だったことと思います。もちろん生活するのがやっとの状態だったので、下村少年の楽しみといえば、図書館で借りる本です。

    おそらく小学校にある図書館の蔵書のうち、1000冊は読んだというほど読書にのめりこみ本の世界が下村少年の楽しみでした。そして読書を通じて、本から知識を得てそして学ぶ喜びも味わうことになりました。父親がいない中で、息子を強くするために子供ために働く母の姿を感じ、親として子供を育てて行くありかたを母親の背中を見て学ぶことになりました。

    友人の家に遊びに行けば、友人の家にはずらーーっと背表紙が美しい本が本棚に並んでいます。ずらりと並んだ本を見て、下村少年が感じたことは「ただただ羨ましかった」ということですが、羨ましいと同時に下村少年は図書館へ行き本を借りなくては、読書することができません。親から与えられた本だからこそ、本の素晴らしさを感じ取ることもなくただ置いているだけなのかもしれないと思ったそうです。

    豊富な読書量で知識を本から学び取った下村少年は、中学生になり高校へと進学する時期がやってきました。目指した高校は群馬県でも県下有数の進学校の群馬県立高崎高校です。群馬県屈指の歴史ある進学校の高崎高校は、第67代内閣総理大臣の福田赳夫に第71.72代内閣総理大臣の中曽根康弘の出身校でもあります。群馬県屈指の高崎高校に進学したいと強く願った中学3年生の時には、かなりの勉強量で絶対に行きたいという強い気持ちで勉学に励み、見事高崎高校に合格しました。

    父親を小学校3年生の時に交通事故で失い、女でひとつで子供3人を育ているというのはかなりギリギリの生活だったと思います。高崎高校は私学とは違い公立ではありますが、やはりそうはいっても母親一人の収入ではかなり厳しいものがありますが、息子のがんばりと息子の進学したいという強い熱意に母は押されて「公立ならなんとか出せる。けれど高校まで。」と息子に話をして、息子の高校進学をささえました。

    政治家を目指すきっかけとの出会い

    高崎高校へ入学して高校1年生のときに、学校からの紹介で奨学金を受け取ることができました。これは母一人の収入で、育ち盛りの子供3人を育てている母親からすると、かなり嬉しいことだったのではないでしょうか。交通事故で保護者を失った遺児に対して、奨学金を出す制度がちょうどスタートしたからです。この奨学金を受け取ることで、生活はもちろんかなり助かります。そして日本育英会の特別奨学金も受け取ることもできたことで、高校生活を送るうえで安心して勉学に励むことができたのも、このような育英会があればこそです。

    高校に進学したいという強い気持ちを持ちながらも、高校へ合格しても学費はどうなるのか。と心配したように、誰よりも学びたいという強い意志があったことから「学べる権利が自分にはあるはずだ」という気持ちを抱くようになり、そして育英会から奨学金を得たことで、このような育英会などに関する仕組みを付くのは政治と、政治に対しても興味がわき政治の中でも「教育」環境を整備したいという気持ちを抱くようになったそうです。中学校から高校へ進学するにあたって、自分自身が身を持って教育を受ける権利、そして平等に教育を受けることができるような社会の仕組みという点で、大きな影響を及ぼしたことは間違いないでしょう。

    早稲田大学へ進学

    群馬県下の進学校高崎高校へ進学して、ふたつの奨学金を得たことで高校から先の進学も見えてきました。そして大学進学するときに、母親から言われたのは授業料の安い地元の国立大学への進学です。母親としても奨学金を得ても、やはり私立大学は高いという学費が頭を過ぎったのでしょう。それはそうだと思います。いくら奨学金を得たからとはいえ、やはり私立大学へ進学するのは、地元でも裕福な家の子弟などある程度家庭に財力がなくてはそう簡単に「東京の私立大学へ進学しなさい」など軽々しく口に出せなかったと思います。

    母親は地元の国立大学へ進学して欲しいと願いますが、選んだ先は早稲田大学でした。どうして早稲田大学を選んだのかと言うと、小学校の頃から本をかなり読んでいた少年時代と変わらずに読書は欠かさず好きだったことから、当時文学界で活躍していた五木寛之氏や野坂昭如氏といった作家が、早稲田大学出身だったからです。文壇の世界で活躍する作家に、早稲田大学出身者が多かったことから、地元の国立大学ではなく東京の早稲田大学へ進学したい、彼らのような自由な文学が生み出される早稲田の自由な校風に憧れを抱いて、早稲田大学への進学を希望してその結果早稲田大学のあらゆる学部を受験して、教育学部へ合格しました。

    板橋区へ

    自由な校風に憧れ早稲田大学教育学部への進学が決まり、群馬県から上京することになり住まいは板橋区のアパートへ下宿しました。早稲田大学の学費は奨学金で賄うことが可能でしたが、親に仕送りをもらうことはできるはずもなく、家賃が安い板橋区のアパートへ下宿して、自分の生活費は自分のバイト費用でまかなうために選んだのが家庭教師のアルバイトでした。

    家庭教師のアルバイトをすれば、下宿費用と食費を稼ぎかつ授業にも出なくてはいけないので、ある程度自分で融通をつけることができる家庭教師を選んだのでしょう。そしてそのアルバイトでのひとりの少年との出会いが、またしても現在の下村議員の「教育」へと向かわせるキッカケとなりました。

    家庭教師として担当した生徒は小学6年生の男の子でした。少年の父親が私立大学付属の中学校へ入学させたいと願っていましたが、少年の父親自身がかつて受験してダメだった学校だったので、自分が果たせなかった夢を息子にと思ったのかもしれません。少年は今までも色々な塾へ通ってはいたものの、どうにも成績がパッとしなかった模様で他にも家庭教師をお願いしたものの少年の成績が伸びなかったこともあり、どうにかならないものかと大学生の下村氏へ家庭教師の役が回ってきました。

    下村氏は父親を幼くしてなくしているため、本も満足に自分の思うとおりに購入することもできずに、自分自身で努力して大学までの道を切り開いてきました。この少年とはまったく逆の人生を今まで歩んできました。この少年は塾費用に家庭教師と、親が息子の成績を向上させるためにお金に糸目をつけずに費用を支払ってきました。少年は少年で、いろいろな塾に親から生かされて入るものの、成績もぜんぜん上がらずにどんどん落ち込んでしまい自分自身でどうせバカだし、と自分で限界を決めて勉強しても無理だと自信を失っていました。

    そんな少年に対して、家庭教師としてとった行動は、あれやこれやと手取り足取り教えることなどしないで勉強は自分自身でやるものだ。とヒントを与える程度にして、自分自身で勉強させるようにしました。そして少年が自分自身で解答を導き出せば、大いに褒めてやればできるんじゃないか!と激励していくうちに、ぐんぐんと少年の成績は上り始めました。かなりの成績の伸びで、少年も勉強することへの意欲がわいたからでしょう。

    少年の受験の結果は、第一志望校の私立中学こそは残念な結果でしたが、第一志望校と同じようなレベルの別の私立中学校に合格したときには、まるで自分自身が合格したのかのように少年の合格を喜びました。少年は私立中学へ進学しましたが、やがて驚くべきことがおきました。それは少年の父親の事業が傾き、一家離散状態になったしまったのです。話を聞いて少年の下を訪れたましたが、莫大な借金を背負った両親は、借金取りから身を隠すために一家バラバラで生活していて、少年だけは高校まで卒業させたいと願って親戚のところへ預けて通学させていました。

    かつてはなんの暮らしに不自由もしていなかった少年でしたが、今ではまったく違った生活を送っている様子をみて、涙が止らなかったそうです。かつて教え子だった少年に、甘い言葉をかけてはいけないと「この貧しい境遇だって、モノは考えようで今回のことでもっと大きく成長することになる。奨学金制度だってあるんだし、大学へ入ったら塾の講師として面倒をみるから、それまでは頑張れ!」と教え子だった少年を激励します。すると少年は小学校時代に、自分に自信を持てなかった少年時代とはまったく違った逞しい表情で「分かってるから。」と自信に満ち溢れた表情で力強くうなづきました。

    勉強が最初からできない子供などいない。それぞれが自分の中にある優れた能力に気が付いていないだけで、環境だったり自分自身の気持ちの持ち方で勉強をする意欲を失っているのではと思い、勉強を通じて子ども自身の能力に気づかせることができるのでは?!と思うようになります。そして早稲田大学4年生のときに、友人達へ声を掛けて塾を開校します。

    開校した塾は小学生を対象にしつぁ学習塾で、名前は「博文館」です。「博文館」では勉強だけを教えるのではなく、様々な体験をさせるという取組みを行いました。合宿をしたりマラソンをしたり、また外へでてキャンプをしたりと学習塾の枠を超えた取組みをしました。学校の授業についていけないから非行に走るといった、いわゆる落ちこぼれたちが多く塾に集まることになり、子ども達と真正面からぶつかり数多くの子供たちと接する上で感じたのは、問題児を生み出しす公的な教育現場と、非行に走った子ども達の行き場がないという、教育の現状です。

    塾を開いたことで小学生の子ども達が、勉強を学ぶために塾に通いそんな教え子達と接して行くうちに、日本の抱える教育現場の問題点を感じるようになります。教育現場の様々な疑問を抱くようになり、それが現在の議員活動へと繋がり国会議員として、教育改革論を語る基礎になったのはこの塾を通じてのことになったといえるでしょう。

    早稲田大学教育学部を卒業しても、塾経営は続けて他の私塾とも関わりまた地域に根ざしたネットワークを造り、公的な教育現場ではなく民間というフィールドでもって新しい教育のい形を実現しようとしました。学校では平等を重んじるばかりに、全国で一律そして運動会での一等賞をやめて、努力をしても一等賞をもらえない教育をするようになっていることに疑問を抱いたからでしょう。塾を運営しているうちに、「教育」がライフワークになったといえるでしょう。

    早稲田大学へ入学して、最初は家庭教師から教えることの教育に携わるようになりやがて学習塾を在学中に開いていますが、もちろん大学生活もしっかりと送り大学に在学中の時には、数々の政治家を輩出した弁論クラブの早稲田大学雄弁会へ所属しています。もちろん雄弁会へ所属したメンバーのみんなが政治の世界へ入っていませんが、政治評論家やマスコミを始めとしたジャーナリストなどになっている卒業生が多いだけに、雄弁会を選んだ時点でおそらくいつかは政治家に・・と言う思いがあったのではと思います。