少年との出会いと公教育の欠陥

 大学進学問題が目の前に迫った。
 二つの奨学金で何とか大学にも進学できる。それでも母は授業料もより安い地元の国立へ行ったらどうかと言った。だが、この時期は読みあさっていた五木真之や野坂昭如など早稲田大学出身作家が一世を風靡していた時代だった。そんな文学が生まれる自由な校風にあこがれ、私は早稲田大学のあらゆる学部を受験し、教育学部に合格した。
 家賃が安いこともあって、東京・板橋区のアパートに下宿した。交通遺児育英会などの奨学金で学費は賄えたが仕送りはない。生活費や本の一冊も買うためにと家庭教師のアルバイトを始めたが、そこで出会った一人の少年が私の進む道に大きな影響を与えることになる。

大学時代から学習塾を経営

 小学校六年生のその少年は、父親が、私立大学の付属中学校に進学させたがっていた。その学校はかつて父親が受験して失敗した学校だった。実は私が初めての家庭教師ではなかった。あちらこちらの塾に行かせたり、現役の教師に見てもらうなどしたが成績がどうも上がらない.その挙句、私に家庭教師が回ってきたのだった。
 私にとって初めての教え子に、どんな接し方をすればいいか、どうやって成績を上げればいいか考えに考えた。少年は名門塾の準会員で、毎週日曜日にテストを受けていたが私が教え始めた頃は3QOO番ぐらい。受験さえ諦めた方がいいというような成蹟だった。
 私には性格が災いしているとしか思えなかった。少年は気が弱く神経質だった。少年は成槙が悪いとどんどん落ち込んで自信を失う。自分の頭が悪いんだと決め付けてさらに精神的に深みにはまって行っているようだった。
 私は早くに父親を亡くし、精神的にも金銭的にも苦労しながら自分自身で進学の道を切り開いてきた.少年は恵まれ過ぎているのかもしれない。もっと本人にやる気を起こさせ、受験は他人がやるものではない。父親がやるものでもない。自分自身がやるものだということを教えることにした。
 手取り足取り教えず、楕題なども自分自身でやらせた。解けなくても少しヒントを与えるだけにして徹底的に自分でやらせた。間違ったら説明だけして再びひとりで解かせる。そして解けた時には、「もう一度考えたらほらできたじゃないか。頭が悪いなんてことはない」
と誉めた。
 そんなことを繰り返しているうちにぐんぐん成績が上がり始め、半年後には最高6番にまでなった。少年は自信を持ち勉強に意欲を示し始めた。やり方は大成功だった。
 一方では、少年と本当によく話した。人の心に働きかけるのも大事だと思ったからだ。少年は、勉強のあと、「下宿まで送る」とよくついて来た。ふたりでずっと話をするのだが、友人の話や担任とうまく行かないことなどそれはもう人生相談だった。キャッチボールなどもした。教科の暗記でも理解でもないそうした時間は、少年に自信を付けてもらう何かを与えられる時間だと私は思っていた。 翌春、少年は第一志望こそだめだったが、ほぼ同じレベルの別の私立中学校に合格した。私は心底嬉しかった。
 ところが、やがて少年は辛い思いをすることになる.父親の仕事が行き詰まりー家離散の憂き目に遭ってしまったのだ。莫大な借金を抱えた両親は、落ち着くまでの間一家別々に過ごし、借金取りから身を隠すことにした。両親は、少年を高校だけは卒業させたいと願い、親戚の所に預けて通学させた。
 話を聞きつけ、私はその親戚を訪ねた。少年は元倉庫だったところに住んでいた。私は、その暮らし振りを見て、涙が止まらなかった。しかし、甘い言葉をかけてはそれまでの私が少年に接してきた何かが崩れそうな気がした。自らの力で切り開くことを教えるのが私の役目だとずっとこだわってきたではないか・・・。敢えて、心を鬼にしてこう言った。
「これで俺と同じような境遇になった。でも俺がそうだったように物は考えようだ。かえって今回のことやこの暮らしでもっと大きく成長する。間違いない。奨学金制度だってある。大学に入ったら塾の講師として俺が面倒見る.だからそれまで頑張れ」
 彼はぴっくりするほど逞しくなっていた。
「先生、分かってるから・・・」
 力強く頷いた彼の、その自信に溢れた表情は忘れられない。

 少年との関わりを通じて私は教育に一層興味を持った。
 ≪教育は深い。面白い。子供はやる気にさせたら成蹟もどんどん上がり、人間的にも強くなって行く。逆に成績がだめというだけで、本人は自信を失い、マイナス面ばかりが出て来る≫
 気の弱い少年に必死で接したことで、彼が自ら能力を引き出した。感動的だった。しかも、私自身が、父親のいない中で苦労してきた体験談がそのまま教育の理念や実践に当てはまる。体験があるからこそ子供たちにアドバイスできる。
 私は大学四年生になると友人らに呼びかけて塾を開いた。

 勉強ができない子供なんていない。ただ自分の中にある能力に気づいていないだけだ。環境や気の持ちようから意欲を失っているだけだ。成蹟も悪く受験にも失敗すると、社会や親すらも子供に無言で烙印を押す.子供は一層自分を喪失し、ひいては社会のレールからも外れて歩くようになる。教師も親も何もしてやれないばかりに行き場を見失い、自らの可能性を引き出せないまま大きくなって行く子供たちがいる-。
 少年に対してそうであったように自分にも何かやれそうな気がしたのだ。私にとって塾の目的は明らかだった。それはひたすら合格だけを目指すのではなく、勉強を通じて子供自身に自分の能力を気づかせることであった。
 一歩進んでその子供の良きパートナーとなり、その子供にやる気と自信を付けさせる生き方を教えたいという、人生教育、心の教育のようなことを実践したかった。何もトップになって一流中学校や高校に入る必要はない。それぞれの子供に合った前進であれば良かった。
 このため、塾では色々なことを取り込んだ。マラソンや合宿、キャンプ、キャッチボール、子供たちへの手紙で人生を語る・・・。学習塾というよりは、人間形成塾と言った方が適切だったかもしれない。
 進学校受験などを期待する保譲者などには当然不満もあったと思う。ただそうした考えを変えるつもりはなかった。塾のカリキュラムは進学塾というよりも学校の授業を補完する役割だったと言っていい。だから、学校の授業について行けない子供たち、いわゆる悪ガキが必然的に多く集まった。
 塾に入って来た子どもたちは、学校で授業について行けずに非行に走る。学校は見放し家庭でも親がお手上げ。そんな彼らを社会のどこかで救わなければならない。
どんな子供でもうちの塾に入りたいと言うなら断るなんてとんでもない話だと思っていた。正義惑に燃えたようなところがあったと思う。
 色々な子供たちと様々な場面があったことを今も忘れない。喫煙や不登校など親の言うことを聞かない中学生の男の子の家まで押しかけ、
「先生が面倒を見る。とことんお前のことを考える。食事だけは家でしていい。ただし夕食が終わったらすぐに先生の家で勉強する。朝になったら食事だけ家に帰り学校に行く。それ以外は宿泊は全部先生と一緒にする」
などと迫ったこともある。
 母子家庭の中学生の札付きの不良少女を母親から預かって欲しいと頼まれて格闘した時には、その少女に向かって、
「母子家庭というだけで世間は必要以上に厳しく見るものだ。同じことをやっていても悪く言われる。ちょっと目立っただけで不良にされてしまう。だけどそんなことを言う奴の方が間違っている。母子家庭であろうが、両親が揃っていようが非行に走る奴は走るし、一生懸命やる奴はやってる。あくまでも自分自身の問題だ。先生も母子家庭で育ってきた。だから余計に家庭環境うんぬんで不良になったなどと言われて欲しくない。うちの塾に来た以上それだけは肝に銘じて生きて欲しい。分かってくれるか」
 私自身の経験を重ね合わせて力説したこともあった。
 時には掴み合いをしながらも、正面から向かい合ったこのふたりは社会に出て立派に働いている。

私塾経営で分かった学校の意義

 ところが、塾経営は私の中で、そんなどこか青臭さがある単なる青春時代の思い出には止まらなかった。数多くの子供たちと接しながら、私には日本の教育問題の病根が見え始め、様々な疑問を持つようになった。これが私の教育改革論の基礎になって行ったのである。
 まず、問題児を生み出し、彼らの行き場がないという公教育の現状。
 当時の調査では、小中高校で、学校の授業について行けないと答えた生徒が小で三割、中で五割、高校で七割いて、七五三教育と言われた。それでも学校は指導要領に従って授業を進める。当然落ちこぽれる生徒が出てくるが、教師たちは構う暇などない。画一的な教育現場ではその他大勢の子供たちを平均的に向上させ前に進めなくてはならないからだ。ひとりのために立ち止まってみんなが遅れるわけにはいかないのである。
 やはりその隙間の子供たちを救うのは私塾(私学)しかない。ドロップアウトした子供に対して公教育は何もできない。接し方を知らない教師も多い。
 私は塾でも子供たちと徹底的に話した。勉強も、ただ合格を目的とせず、自らの潜在的な能力に気づかせることの方が目的だった。 公教育に、人間として頑張ること、能力を自らの力で引き出すこと、そんな人間教育をする場所はない。人の一生や人生を決めて導いてやるのが教育ではない。その自力を発揮できる環境を、少しでも作ってやるのが教育の原点だ。
 そして、私自身の幼少期の体験から、ある確信も生まれた。それは、前述したように、勉強することは権利であって義務ではないということだ。
 その年齢になるまで、私にとっては高校受験というものが最大のヤマだったと、塾の子供たちを重ね合わせながら思った。私が通った中学校は当時高校進学率七割程度。私は地域でトップ校である高崎高校にどうしても進学したかった。母親は承諾はしてくれたが、もし落ちたら就職することが条件だった。
 後がなかった。家族が寝静まった頃、よく気分転換にと山深い真っ暗な道を散歩した。友人たちは夜中まで勉強していると聞く。自分は夜11時頃になるともう眠気が襲ってくる。不甲斐なさを感じた。合格するかどうか不安も襲った.不合格ならば働くことになる。父親が死んだ自分の身を哀れんだりもした。絶望的な気分とはあのことを言うのだろう。
 しかし、結論はひとつだったb安易に流されがちな自分と戦い、行きたい道を歩むためには、自分で努力するしかない。そんな受験勉強の日々を重ね何とか高崎高校に合格した。受験できる、学校へ行ける、その喜びを知った。行きたくても行けないことがどんなに幸いことか。前に述べたので重複するが、私にとって勉強や進学を勝ち取ることは権利だった。だが、公教育はそんな綱渡りのような極隈の状態に子供たちを追い込むようなことはしない。
 学校では結果の平等を大事にするあまり、運動会の一等賞をやめ、全国一律、画一的な操業を続ける。成続が悪くても進級できる。逆に努力しても、一等賞をもらえず、ひとりだけ進んだ授業をしてもらえるわけもない。そうなると、努力しなくても同じだ。頑張っても意味はない。価値も見出さなくなる。そして、もう誰も学ぶことが権利とは思わなくなる。学校が当たり前に平等を与えてくれるのだから。
 卒業したあとも塾経営を続けた。そして、こうした考え方の元で私塾同士や地域とのネットワークを作りながら、民間というフィールドに新しい教育の形を実現しようとした。人間教育を主眼にした教育である。
いつしか「教育」が私のライフワークになっていた。


9歳の時 父親が亡くなって
政治家を志して
内閣官房副長官時代
自民党政調副会長として
板橋を元気に
教育再生 日本創生 下村博文
博文(はくぶん)チャンネル動画配信博文(はくぶん)ブログ 日本創生プロフィール、生い立ちと実績下村博文の政策、理念
10月28日発売 著書
下村博文の教育立国論


下村博文の教育立国論 下村博文 著
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出版 河出書房新社
概要 交通遺児奨学金によって教育を受けた経験を持ち、元文部科学大臣政務官である著者が語る、基本教育と尖端教育のバランスのとれた、新しいリーダーを育てるための教育論
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